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長いお別れ

最初の予定では
マリア院にお部屋を借りて追悼会をやるつもりだったのですが
コノン神父様のご紹介で教会に隣接した幼稚園のお部屋を借りる事ができ
そこの近くのJR駅で待ち合わせて行きました。
集まったのは 
ノリー、ヒラリー、マサコさん、アッチー、エリン
そして私の6人でした。

ヒラリーが
K子さんのと勤め先の学校が出してくれた追悼の学校通信を
人数分コピーしてきてくれたものと
ノリーが
K子さんの最近の写真を手に入れてくれて
3枚を写真立てにバランスよく配置してくれたのを眺めて


・・・・すごく辛かったです。


来る時の電車の中でうまい具合に二人に合流できた時に
二人が

「K子さんの写真を見ちゃったら もう辛くてねぇ・・・
だって、マリア様みたいな顔してるんだもの」 

と言っていた意味がよくわかりました。

そこには学生時代とほとんど変わっていないK子さんの
きまじめな顔、楽しそうに笑っている顔、いきいきとした表情の顔
があったからです。
写真立ての写真を見ながら 

『もっと会っておけばよかった、
忙しいんだろうなと
遠慮なんかしないで会っておけばよかった』

と後悔の念がわき起こって来ました。
後悔先に立たず、です。



私はコノン神父様にお会いするのは30年ぶりです。
たぶんヒラリー以外はそうだったんじゃないのかな。
神父様は

  「名前は今出てこないけど 顔は覚えてるよ」

とひとりひとりの顔をゆっくり眺めて笑顔になられました。

2時を少し回ったあたりで
きちんと司祭服にお着替えになり 正式な御ミサをしてくださいました。
御ミサのあと、神父様はまた着替えのために席を立たれたのですが
その間に

  「神父様のMSに招かれている話、どうしよう・・・?」

となりました。
手術を受けて、話がしづらい事は聞いていましたが
御ミサの時の聖餐やお水を口に含んだあとで
苦しそうにしていらっしゃる御様子や

  「さっき、今度、内視鏡検査の予定があるとかって言ってなかった?」

うんうん、言ってた。

  「MSに移動して用意した茶菓でゆっくりお茶のみなんて
  ちょっと無理だよね・・・このあと少しお話して それでここは失礼しようか・・・?」

そうね、それが良いわね。
あまり御無理もかけられないしね。

と素早く相談しました。

神父様は今は口からは物を食べる事ができず
胃に穴をあけてそこから食物を入れ
不足する分は週に3回、点滴を受けていらっしゃるそうです。
なのに
聖餐をきちんとお食べになり、お水もお飲みになりました。
でも、あとで とても辛そうにしていらっしゃいました。
その時は神父様のご病気の詳細を知らなかったので驚くとともに
そんな状態なら、省略してくださってもよかったのに、と思いましたが
誰かが

  「きっとK子ちゃんのために正式なものをしてくださりたかったのよ」

そうなんだろうか・・・
食べたつもり、飲んだつもりでも
K子さんは文句を言わないだろうし、
神様だって天罰を与えたりしないだろうと思ったのですが
でも、私が神父様だったら やっぱりちゃんとやるだろうな、と考え
神父様のお気持ちを有り難く受けようと思いました。


やがて、神父様が戻って来られ、用意したお花も飾らせていただき
ちょっとだけお話をすることにしました。
神父様はK子さんから届いた手紙を見せてくださりたかったようなのですが
私は見ないでいたい、と思ったので
やはりMSにお伺いしないでよかったと思います。
その手紙は神父様とK子さんの大切なもので
私たちが見てはいけないような気もしましたし。

コノン神父様は
5年前に喉頭ガンの手術で口の中の左側部分をそっくり摘出し
お腹の肉をいくらか持ってきて空いた部分を埋めたそうですが、
それですっかり元通りになる、というわけではなく、
とても発音がしにくそうで
なかなか聞き取りにくいところもありましたが
聞き取った人が声に出して補い合うようにしてお話を伺いました。


K子さんをお見舞いにいってとてもたくさんお話をした事、

K子さんが病気を受け止め本当に穏やかに闘病していた事、

彼女の最期を神父様が見とったそうですが
優しくて穏やかな表情で亡くなった事を教えてくださいました。

  「僕がこの手術をした後は とても心配して何度も尋ねて来てくれたんですよ。

  「思い残す事は何もないけど、ただ母を残していく事だけが
  心残りだと言っていたね。

  「とっても綺麗な字でね、余命あと~ヶ月です、という手紙がなんどか来ていたんで
  それをみんなに見せたかったんだけど・・・

  「あんなに悟れるものかなぁ・・・僕にはできそうもないなぁ・・・

  「最後の言葉はね、『教壇に立ちたい』だったんだよ」

K子さん、神父様に見取って頂いて、本当に良かったなぁと思いました。
お話を伺うまでは、家族にそばにいてほしかったろうに、と思っていたのですが
信頼し敬愛する神父様に見取っていただいて
K子さん、きっと幸福だったろうな、と。


そのうち他の話にもなり、
誰かが

  「私たち、あの頃の先生(神父様は「宗教学」の教授だった)より
  年上になりました」

と言うと

  「そうだよ。君たちの方がずっと年上だよ。
  あの頃の僕は40ちょっとくらいかな。
  今の君たちよりずぅっと若かったさ。今、僕は76歳だからね」

と言って、口に手をあてて「うふふ」と声に出さずに笑う様子は
昔通りでした。

神父様は話し好きだったし、話す事が職業だから
今、うまく話せないのはどれほどストレスがたまるだろうと思うのですが
身振り手振りを混ぜて一生懸命話してくださいました。
最後に
  
  「今の君たちはね、日本を背負って立っているんだよ。
  日本にパワーを与えるのは君たちなんだから
  元気で頑張ってほしい」

という言葉を頂きました。
 
 


帰途の話です。 

神父様と別れたあと、マイヤの母上の捜してくれた喫茶店に行きました。
行った、と言ってもJR駅に隣接しているので
あちこちウロウロ歩かなくてすんで大助かりでした。
幸い6人掛けの席もあり、うまい具合に6人で座ることができました。

そこでK子さんの事に始まって
大学の思い出や今現在の教育問題(なにせ現役高校生の母がいる)や
今の自分たちの近況やらいろいろ話しました。

なんと250円のコーヒー、紅茶で3時間もねばってしまいました。
メニューを見ずに注文したので
250の数字を見た時は、申し訳ないやら何やらで

  「カレーとか何か食べるものを頼めばよかったわね」

と反省。


JRの座席でヒラリーと並んで座ったのですが
ヒラリーが・・・

  「今回の件でね・・・なんていうか・・私、すごく動揺したのね。
  こんなに動揺するとは思わなかったから自分でも驚いたの・・・
  卒業してからそんなに連絡とってないし
  手紙とかもやりとりしてなかったし・・・
  意識はしてなかったけど、
  きっとK子さんとつながっていたんだと思うのね。
  心のどこかで この空の下でK子さんが頑張っている、
  私も頑張ろう、なんて考えていたんじゃないかと思うの。
  強いものじゃなくて・・・
  なんていうか、きっと柔らかくゆるやかにつながっていたんだね。
  細いものだったかもしれないけど 確かにつながっていたのよ。
  だからねぇ・・・ショックだったの。 

  「でもさぁ、K子さんの最期が潔かったとか、充実していた人生だったとか
  いろいろ言うけど、ジタバタする部分っていうのかな、
  充実していたらしていただけにアレもしたいこれもしたいって
  あったんじゃなかったのかなと思うんだよね。
  でも、それを断ち切ってそれこそ潔く往ってしまったわけじゃない?
  そのために どれだけの思いでいろんな事を断ち切ったんだろうかと思うとねぇ・・・

そう。
もっとジタバタしても良かったし
してほしかったような、
というより私の方が訃報を聞いて以来ずっとジタバタしてるんだろうと思う。
K子さんが潔かった分だけ
こっちがジタバタしてるのかもしれない。

「それでプラマイゼロなんじゃない?」

とK子さんが
瞳をくるくるっとさせてあのきれいな声で言ってるような気がします。


神父様はK子さんが皆を引き合わせてくれた、とおっしゃったけど
できるなら
生きているK子さんとも会いたかったな。
でも、こういう事でもなければ会うなんて事はなかなか叶わないわけで。

真っ暗な中をトコトコ走る列車の窓から町の灯りを見ながら
こういう儀式は亡くなった人のためではなく
残った人たちのためにあるのだ再認識しました。

やはり
K子さんが会わせてくれたのでしょう。      合掌
by kumorinotini | 2006-12-18 11:48 | 友人達 | Comments(0)

ミラーサイトだったのに、本家になっちゃって・・・


by kumorinotini