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疑わしきは被告人の利益に◆「重い扉~名張毒ぶどう酒事件」

夜中に中京テレビ制作の「重い扉~名張毒ぶどう酒事件」という番組をやっていた。
ドキュメントである。
詳しくはリンクを貼ったこちらを読んで頂きたい。

名張毒ぶどう酒事件

夜中の放送だったので録画して翌日じっくり見たのだが・・・・

弁護士さん達が手弁当であれこれ努力して
えん罪である事を証明した数々の証拠ビデオを見なくても
被告の奥西勝(おくにし まさる)氏がえん罪であり無実なのは
火を見るよりも明らかだろうと思う。
なぜなら・・・・
まだ死刑を執行されてないからだ。
拘置所に回ってきた彼に関する書類には
「無実につき死刑の執行を禁ず」
なんて注意書きが書いてあるのではないかと思う。

これまでのえん罪事件の被告たちも何故か死刑が執行されないで来て
数十年後に再審で無罪が確定してきた。
書類に大きく?マークでも書いてあったのではないかとにらんでいる。
えん罪事件を見るにつけ
そんな邪推をしたくなるではないか。


さて、
詳しい内容は省く(リンク先参照)が、
このドキュメントを見ているうちに途中から身体が震えてきた。

ひとつめ。
警察と検察が自分たちのメンツのために
それぞれ証言をゆがめ、ない証拠をねつ造し、自白を強要したこと。
すでに無罪が確定した他のえん罪事件に関わっていた弁護士さんに
取材したところによると検察の職場から
えん罪である事が明らかにわかる証拠が
発見された事もあるそうである。
「これが提出されていたら すぐに(裁判を)ひっくり返せたのに」
とその弁護士は悔しそうに語っていた。

ということは、警察も検察も
被告が真の犯人ではない事を知りながら
被告を死刑にするべく動いていた事になる。
これは非常に恐ろしい事ではないだろうか。

何故、弁護側がこの証拠を使えなかったかというと
日本には『優良証拠主義』という悪しき慣習があり
検察は被告を有罪にできる証拠しか裁判に提出しないからだそうだ。
裁判には証拠のすべてを提出しなくてなならない、という法律がないらしいのだ。
これは由々しき問題だろう。
弁護側は片手を縛られた状態で戦わねばならないからだ。
これはかなり腹の立つ事実だが、
だがその後にほとんど絶望的になった事があった。

ふたつめ。
裁判官には次のような事が求められている。

 「被告人が罪を犯したかどうか、その証明に疑問の余地があれば
  裁判官は被告人を無罪にしなければならない」

こういう基本的な事が
この事件の2審では完全に無視されたのだ。

私たちが何かの事件で、無実なのに被告になった時に
私たちが頼りにし、すがり、望みをかけるのは
裁判所の公明正大さである。
それが守られていないのであれば
私たちは何を頼りに何を信じて裁判を受ければよいのか、という事だ。

裁判官にインタビューしたところ
「不利になるとわかっている事を自白はせんでしょう」
とにこやかに答えていたが
被告の全てが取り調べや裁判官の心証に詳しいわけではない。
法律に詳しいわけではない。

私たちが何かの事件で警察に引っ張られ(任意同行の形を取る事が多い)
逮捕された時、
私たちには当番弁護士を呼ぶ権利があると
一体何人の人が知っているだろう。
そして、警察にはそれを拒む理由がなく
「あとで連絡してやる」
と言ってはいけない事も。

(今後のために これリンクしときました。
長くないので是非目を通してください。


刑事事件   )  

だが、何も知らないで取調室で怯えているのが大半なのだ。
しかも、
この事件のあった時期は今から45年前なので
当番弁護士制度もなく
人々はたぶん今よりもっと警察・検察・裁判について知らない。

それから、人というのは
あまりにも今が苦しいと目先の大変さを逃れる事しか
考えられなくなり
将来不利になる事でも<自白>してしまう生き物だ。
アメリカだかカナダだかでそういう実験をした事があるそうだが
創作した事件なので被験者は完璧に無実であったにも関わらず
<自白>してしまったそうである。
人間は弱いのだ。
何も知らない人間はもっと弱いのだ。

だが、裁判官はその事を知らない。
「自分に不利な事は自白するわけがない」
と笑顔で言うのだ。
こういうのを聞くと
「お前一度厳しい取り調べを受けてみろ」と
思ったりする。
私は幸いなことに今まで出頭を求められた事はないが
腰痛持ちなので、その辛さに耐えかねて
一日目で自白すること請け合いである。

というわけで
これがプロの仕事なのか・・・と愕然としたのだった。
案外プロになると自分たちの持っている権限に
鈍感になってしまうのかもしれない。
毎日大勢の人間を有罪にしているので
無罪なのに間違って有罪にしても平気なのではないかとさえ思った。
慣れ、というものかもしれない。

せめて裁判所くらいは、と思ったのだが
その期待は見事ひっくり返されたのだ。

みっつめ。
そこで<素人>である私たちを裁判に起用する事になったのだろう。
それが来たるべき『裁判員制度』だ。
しかも恐ろしい事に私たちが審判するのは重罪事件なのだ。
この「名張毒ぶどう酒事件」のような。

それまで新聞・TVやネットのニュースに
散々書かれたり言われたりした事に
惑わされないでいられるだろうか。

感情にまかせて結論を出してしまわないだろうか。

検察・警察の書いたややこしい文章をちゃんと読めるだろうか。

裁判官に誘導されて検察寄りの審判をしてしまわないだろうか。

そして、
勇気を持って「疑わしきは被告人の利益に」と言えるだろうか。
私たちの審判により、人一人の運命がガラリと変わってしまうのだ。


このドキュメントの中で松山事件の斉藤さんを取材していた。(すでに死亡)
斉藤さんはえん罪が晴れて、拘置所を出る事ができたものの
世間から隔絶されていた初老の男がいきなり生活できるものではない。
何より彼は年金を払っていなかった。
払いたくても払えない状況に置かれていたのだ。
斉藤さんは生活保護費を頼りにたった一人で細々と生活していた。
事件にまきこまれなかったら、優雅に生活していただろうに、とは
断定はしない。
だが、事件が彼からたくさんの可能性を奪ったのは確かだ。

自分が受け持った裁判でえん罪事件を出さないですむだろうか。
10人の犯罪者を見逃しても
一人のえん罪者も出してはならない、
「疑わしきは被告人の利益に」
肝に銘じて裁判員を務めなくてはならない。

こんなを考えると震えてきて仕方なかったのだが・・・・

今月中旬だったか、二つの県で一つの事件(創作)を元にした模擬裁判が行われた。
片方は有罪、片方は無罪、という結果になったそうだ。
証拠の揃え方、検察・弁護士のやり方、
そして裁判員の顔ぶれにより結果に天国と地獄ほどの差が出るのだ。
私たちは裁判員に選ばれたら心して掛かるべきであるし
万が一無実の罪で被告になったら・・・・
神仏に祈るしかないのかもしれない。
by kumorinotini | 2006-12-25 10:49 | 時事 | Comments(0)

ミラーサイトだったのに、本家になっちゃって・・・


by kumorinotini